プエルトリコ米国自治連邦区 Puerto Rico
カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国の自治的・未編入領域であり、コモンウェルスという政治的地位にある。プエルトリコ本島、ビエケス島、クレブラ島、ドミニカ共和国との間のモナ海峡にあるモナ島などから構成される。ヴァージン海峡を隔てて東にヴァージン諸島が、モナ海峡を隔てて西にドミニカ共和国が存在する。首都はサン・フアン。
ヨーロッパ人の到達以前のプエルト・リコは南アメリカのギアナから海を渡ってカリブ海周辺の島々で生活していたアラワク族系のタイノ人が居住しており、島はボリンケンと呼ばれていた。
戦後、パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは、フォラカー法によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体された。キューバは1901年に合衆国の傀儡政権の下の独立が認められたが、プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となったのである。
■ルイス・ムニョス・マリン国際空港
Luis Munoz Marin International Airportは、プエルトリコの州都サンフアンにある国際空港。名前はプエルトリコの初代民選知事であるルイス・ムニョス・マリンにちなむ。
プエルトリコ/Wikipedia
■ラ・フォルタレサ
ラ・フォルタレサは、サンフアン市街地を防衛するための要塞の役割を持って1533年から1540年の間に建設された。したがって、サン・フェリペ・デル・モーロ、サン・クリストバル要塞を含む一連の軍事施設であった。
■サンファン
プエルト・リコに最初のスペイン人、フアン・ポンセ・デ・レオンが入植したのは1508年である。当時は、島ではなく入植地を「豊かな港」を意味する「プエルト・リコ」と呼んでいた。サン・フアンは1521年に建設された。当初はクリストファー・コロンブスが聖ヨハネにちなんだSan Juanという名とスペイン人入植者があとからつけたPuerto Ricoを合わせて、サン・フアン・バウティスタ・デ・プエルト・リコ(San Juan Bautista de Puerto Rico プエルト・リコの洗礼者聖ヨハネ)という正式名称で呼ばれていた。20世紀に入ると、市はビエホ・サン・フアンの市壁の外側、さらにはプエルトリコ本島にまで広がった。ビエホ・サン・フアンの南側や東側に既に存在していた入植地をものみ込んで拡大を続けた結果、サンフアンは地域ごとの多様性に富む都市へと変貌した。
■バヤモン
Bayamonは、アメリカ合衆国プエルトリコ島の北部に位置する都市。バヤモンは、"El Pueblo del Chicharron(牛豚の町)" や町を悩ます渋滞のため、"Ciudad del Tapon(渋滞都市)"などと呼ばれる。 バヤモンはプエルトリコの主要都市の一つで、島の首都エリア内に位置している。中心都市のサンフアンに近いため、ポンセやマヤグエスのように独自の空港は無い。
■カグアス
Caguas、は、アメリカ合衆国プエルトリコの都市。内陸部にあり、サンフアン(政庁所在地)から、およそ南20マイル (32 km)に位置する。アメリカ合衆国政府によって2010年4月1日に実施された国勢調査では、プエルトリコで5番目に人口が多い都市とされている。
■ポンセ
Ponceは、アメリカ合衆国プエルトリコ島の南部に位置する都市。サンフアンに次ぐ都市であり、その名称は、スペイン人の有名なコンキスタドールであるフアン・ポンセ・デ・レオンの孫のフアン・ポンセ・デ・レオン・イ・ロアイザ(Juan Ponce de Leon y Loayza)にちなんでいる。
■マヤグエス
Mayaguezは、アメリカ合衆国プエルトリコ島の西岸に位置する都市。1839年に、有名な愛国者で、教育者、社会学者、哲学者、エッセイスト、小説家でもあるエウヘニオ・マリア・デ・オストス(Eugenio Maria de Hostos)がマヤグエスで誕生した。
■国名
自主憲法によるスペイン語名称は、Estado Libre Asociado de Puerto Rico(エスタード・リーブレ・アソシアード・デ・プエルト・リーコ)。このスペイン語を英語直訳すると Associated Free State of Puerto Rico となるが、米国議会等の政府機関はこの英語名称を使うことはなく、あくまで Commonwealth of Puerto Rico(プエルトリコ米国自治連邦区)である。通称 Puerto Rico。ヨーロッパ人の到来以前は先住民のタイノ族によってこの島はボリケン (Boriken)、またはボリンケン (Borinquen) と呼ばれていた。ボリンケンとは「勇敢なる君主の国」を意味する。
■アメリカ合衆国ドル
United States Dollar)は、アメリカ合衆国の公式の通貨である。通称としてUSドル、米ドル、アメリカ・ドルなどが使われる。アメリカ以外のいくつかの国や地域で公式の通貨として採用されているほか、その信頼性から、国際決済通貨や基軸通貨として世界で最も多く利用されている通貨である。
■コモンウェルス (米国自治連邦区)
アメリカ合衆国の海外領土のうち、コモンウェルス (Commonwealth) と呼ばれる政治的地位を持つ属領 / 保護領のこと。自治領と呼ばれることもある。現在はプエルトリコおよび北マリアナ諸島の2地域がこれに該当する。フィリピンも、1946年に独立するまでこのコモンウェルスだった。
■アメリカ合衆国の海外領土
Territories of United States)は、アメリカ合衆国政府により管理されるが、いずれの州にも属さない地域を指す。"Territory" という用語は米国がその領土を拡大していた時代に名づけられたものである。非州領域とも呼ばれる。非州領域は編入 (incorporated) 領域であるかどうか、自治が行われている("organized"、合衆国議会で当該地域の自治法が制定されている)かどうか、の2点に着目した分類がなされる。
■プエルトリコ独立党
Partido Independentista Puertorriqueno パルティード・インデペンデンティスタ・プエルトリケーニョ 略:PIP、英: Puerto Rican Independence Party)は、アメリカ合衆国の自治連邦区であるプエルトリコの政党の一つ。1946年10月20日にヒルベルト・コンセプシオン・デ・ガルシアによって結成された。プエルトリコの政党としては2番目に古い歴史を持つ政党である。現党首は元弁護士のルベン・ベリオス・マルティネス。
■政治
現在のプエルトリコはコモンウェルス(英:commonwealth、米国自治連邦区)という特別な立場にあり、住民はアメリカ合衆国連邦(所得)税の納税義務を持たない代わり、大統領選挙の投票権はない。合衆国下院に本会議での採決権を持たない代表者(Resident Commissioner、任期4年)を1人送り出すことが認められている。自治拡大派のプエルトリコ人民民主党と州昇格派のプエルトリコ新進歩党の二大政党制が確立されている。その他にも現在の様な植民地的地位からの独立を目指すプエルトリコ独立党などの独立指向の政党が存在し、ガブリエル・ガルシア=マルケスやエドゥアルド・ガレアーノらを始めとするラテンアメリカの知識人によるプエルトリコ独立運動を支持する声もあるが、独立の機運は高まっていないのが現状である。
■フォラカー法
(Foraker Act) とは、米西戦争の結果として米国がスペインより取得したプエルトリコ島の自治政府設立とその自治内容を定めた合衆国連邦法。プエルトリコ自治法として、1900年4月2日に当時の米国大統領ウィリアム・マッキンリーが署名して成立した。この法律名は、法案を提出したオハイオ州選出上院議員であるジョセフ・フォラカーの名で知られている。
■経済
ラム酒生産、観光、製薬、農漁業などが主な収入源である。特に観光業の占める割合は大きく、アメリカ合衆国に移住したプエルトリカンの送金も大きな収入源である。
■サトウキビ
Saccharum officinarum)は、イネ科サトウキビ属の植物。別名、カンショ(甘蔗)。ちなみにこれは慣用読みで、本来はカンシャ。2002年時点の世界生産量は12億9000万トンという膨大な量に及ぶ(小麦は同年5億7000万トン)。ブラジル(28.0%)、インド(21.7%)、中国(6.4%)の順であるが、地域別に集計するとアジア州(43.5%)、南アメリカ州、北アメリカ州の順となる(FAO Production Yearbook 2002)。
■ラム酒
rum)とは、サトウキビを原料として作られる、西インド諸島原産の蒸留酒。サトウキビに含まれる糖を醗酵・蒸留して作られる。スペイン語ではロン (ron) と呼ぶ。また、ブラジルのピンガ、日本の黒糖焼酎など、同じサトウキビを原料とする同類系統の蒸留酒が他にも存在することでも知られる。なお、ラム酒は単にラムと呼ばれることもある。
■プランテーション
(plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。経営する側をプランターと呼ぶ場合もある。
■プエルトリコ住民
アメリカ合衆国のパスポートを所持し、アメリカドルを使い、米国市民としての意識も高い。しかし、島の住人の大多数は公用語の一つである英語はほとんど使わず、スペイン語しか話さない。メディアを含め日常生活ではスペイン語が使われている。そのため文化的にはスペイン語圏の中南米諸国とのつながりが非常に深い。
■観光
州都はサンフアン。その他に、ビーチの綺麗なコンダド、著名美術館のあるポンセ、巨大原始林があるエル・ユンケ、そして世界最大の天文台の所在地として有名なアレシボ(アレシボ天文台)等がある。
■文学
コンストゥンブリスモによって生まれた詩人マヌエル・アロンソの『エル・ヒバロ』は、プエルト・リコのクリオージョ文学の古典とされている。現在の作家としては、『マチョ・カマチャのグアラチャ』(1976年)などで知られるルイス・ラファエル・サンチェスが挙げられる。
■絵画
代表的な画家としては、19世紀後半にセザンヌの影響を受けたフランシスコ・オジェールと彼の代表作『通夜』が、20世紀においてはラファエル・トゥフィーニョが挙げられる。
■音楽
キューバ、中央アメリカ、コロンビア、ベネズエラ、ドミニカ共和国、エクアドル、ペルーなどのラテンアメリカ諸国で広い人気を持つサルサはニューヨークに移住したプエルト・リコ人が、キューバ音楽の伝統を受け継いで1970年代後半にニューヨークで完成させた音楽である。
■レゲトン
(Reggaeton)は、80年代から90年代にアメリカ合衆国のヒップホップの影響を受けたプエルトリコ人によって生み出された音楽である。源流はプエルトリコで流行っていた、スペイン語のレゲエ+プエルトリコの音楽(サルサ(Salsa)やボンバ(Bomba)とプレーナ(Plena))加わっている。
■サルサ
(Salsa music)はラテン音楽の一つである。スペイン語のソースを意味し、いろいろな音楽が混ざって形成されたことから命名された説がある。リズムの基本となるのは南米音楽特有の「クラーベ」という単位である。
■プエルトリコのスポーツ
1492年以前(先コロンブス期)にプエルトリコに居住したタイノ族は、身体の強さや釣りの技術などを競う儀式的な一連のゲームをプレイした。しかしながら、これらのスポーツの中で最も重要な二つは、戦闘のシミュレーション(剣闘と同様の)と球技であった。
■アレシボ天文台
Arecibo Observatoryはプエルトリコのアレシボにある電波天文台。米国科学財団(NSF)との協力協定のもと、国立天文学電離層センターの一部として、SRIインターナショナル、宇宙研究大学連合、プエルトリコ・メトロポリタン大学により運営されている。単体では世界最大の電波望遠鏡である。コーネル大学とアメリカ空軍の元で建設されている[1]。直径305 mの球面反射面がカルスト地形の窪地を利用して造られ、3本のマストで高さ150 mに受信機が吊り下げられている固定式のアンテナである。レーダーとしても使用でき、小惑星などの観測にも利用される。
■シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santisima Trinidad Bolivar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ボリバルは1783年、現在のベネズエラ、カラカスのクリオーリョの名家に生まれた。幼くして両親を亡くしたが、アメリカ大陸有数の資産家ボリバル家の男子としてさまざまな家庭教師を付けられた。このときの教師の1人シモン・ロドリゲスの考えがボリバルに大きな影響を与えている。さらに教育を受けるため、16歳のとき1799年にスペインで任官していたおじを頼ってヨーロッパに渡った。修学のためヨーロッパを旅行している。南米の自然学者だったドイツ人のアレクサンダー・フォン・フンボルトに南米独立にかける思いを語って一笑に付されるなどの屈辱的な経験もあったが、遊学中にスペインでマリア (Maria Teresa Rodrí真苺ez del Toro y Alaysa) と知り合うと、1802年に現地で結婚し、妻を連れてベネスエラに帰国した。
■フアン・ポンセ・デ・レオン
Juan Ponce de Leon, 1460年 - 1521年7月は、スペインの探検家、コンキスタドール。スペインの都市サンテルバス・デ・カンポス(バリャドリッド県)に生まれる。若い頃より、イベリア半島にあるムーア人最期の地、グラナダ征服の戦争に参加する等していた。ポンセ・デ・レオンは新世界への2度目の航海で、クリストファー・コロンブスにも同行している。
■バラク・オバマ
Barack Hussein Obama, Jr.、1961年8月4日 - は、アメリカ合衆国の政治家。第44代大統領。上院議員(1期)、イリノイ州上院議員(3期)を歴任する。所属政党は民主党。現職アメリカ合衆国大統領として2009年度ノーベル平和賞を受賞した。オバマは自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した。
■ホセ・デ・サン=マルティン
(Jose de San Martin, 1778年2月25日 - 1850年8月17日)は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1778年、アルゼンチン北東部の小さな村である、コリエンテス州のヤペユーにスペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の子として生まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。
■エドゥアルド・ガレアーノ
Eduardo Hughes Galeano,1940年9月3日 - はウルグアイ人のジャーナリストであり、彼の著書は多くの言語に翻訳されている。彼の作品は正統なジャンル区分を超越し、ドキュメンタリー、フィクション、ジャーナリズム、政治分析、そして歴史を結び付けている。ガレアーノ自身は自身が歴史家であることを「私は忘れないことに取り付かれた、そう、とりわけアメリカの過去、特に記憶喪失を運命付けられた愛する大地、ラテンアメリカを忘れないことに取り付かれた作家だ」として否定している。
■ホセ・フェリシアーノ
(Jose Feliciano 1945年9月10日 - )はプエルトリコ出身の歌手、ギタリスト。1966年デビュー。緑内障のため生後まもなく失明したが、盲目のハンディキャップを乗り越え『Rain』をはじめとした世界的なヒット曲を多く手がけた。スパニッシュ・ギターの名手でもある。
■リッキー・マーティン
(Ricky Martin、1971年12月24日 - )は、プエルトリコ出身の歌手。1984年に、当時スペイン語圏およびアメリカで大人気を誇っていたプエルトリコ出身の少年ボーカルアイドルグループ、メヌードの追加メンバーとしてデビューした。1989年に脱退後はメキシコに活動の拠点を移す。舞台やテレノベラで俳優として活躍した後、1991年ソロシンガーとしてデビュー。1997年の『マリア』のフランスでのヒットを受け1998年の1998 FIFAワールドカップでテーマソングである『ザ・カップ・オブ・ライフ』を歌い国際的に人気が高まる。
■ダディー・ヤンキー
(Daddy Yankee、1977年2月3日-)は、プエルトリコのサンフアン出身のアーティストである。本名はラモン・アヤラ(Ramon “Raymond” Ayala)。2004年にシングル「Gasolina」がスペイン語曲というハンデを押しのけて全米で大ヒット(米32位)、この曲を収録したアルバム『Barrio Fino』はミリオンセラーとなる大成功を収める。
■マーク・アンソニー
(Marc Anthony,1969年9月16日 - )は、アメリカ合衆国のサルサ系ラテン歌手である。近年はポップ系のアルバムや俳優としても活躍している。プエルトリコ系アメリカ人。マーク・アンソニーは1969年プエルトリコ人の両親の間にニューヨークで生まれた。アンソニーが生まれた時期はサルサがニューヨークで生まれた時期である。当初はクラブミュージシャンとしてデビューしたものの、1992年に有名ラテンバンドリーダーティト・プエンテのコンサートに出演したを契機に、1993年サルサ歌手に転向し、同年に1stサルサ・アルバム『オートラ・ノタ』を発表する。
■ロベルト・クレメンテ
Roberto Clemente Walker , 1934年8月18日 - 1972年12月31日)は、プエルトリコ出身のプロ野球選手(外野手)。メジャーリーグにおけるヒスパニック系選手の先駆け的存在であり、現在でもプエルトリコ出身の選手から目標とされていることが多い。ナショナルリーグで4度首位打者を獲得し、打率は年間上位10人の中に13度入った。生涯のヒット数は3000本である。右翼手としても群を抜いた強肩で、その強肩は「ライフルアーム」と称され、相手走者には恐れられていた。1試合最多補殺5回はナ・リーグ最多。
■ロベルト・アロマー
Roberto Alomar Velazquez , 1968年2月5日 - はアメリカ・メジャーリーグで活躍した元野球選手。二塁手。右投両打。プエルトリコ出身。通算安打は2724本、ゴールドグラブ賞は二塁手として歴代最多の10度受賞と、攻守に素晴らしい実績を残し、史上最高の二塁手とも言われる。2008年、自身の背番号『12』はブルージェイズのエクセレントナンバー(準永久欠番)として顕彰された。
■エステバン・デ・ヘスス
(Esteban De Jesus、男性、1951年8月2日 - 1989年5月12日)は、プエルトリコのプロボクサー。身長164cm。元WBC世界ライト級王者。世界3階級王者ウィルフレド・ベニテスのジムメイトであり、ベニテスの父親にトレーニングを受けた。世界4階級王者ロベルト・デュランにキャリア初黒星をつけた選手であり、デュランとは生涯で3度対戦し1勝2敗となった。総試合数63・勝ち58・KO勝ち33・敗け 5
■ウイルフレド・ゴメス
(Wilfredo Gomez、男性、1956年10月29日 - )は、プエルトリコ出身の元プロボクサー。ジュニアフェザー級、フェザー級、ジュニアライト級で3階級制覇を成し遂げた。史上最高のハードパンチャーの一人として知られ、世界戦17連続KO防衛の記録はいまだ破られていない。全盛期のゴメスのパンチは「バズーカ砲」という異名をとり、強打を連打するというスタイルで、約6年半にわたって31戦連続KO勝利という、軽量級ボクサーとは思えない戦績も残している。1981年8月21日、13度目の防衛に成功後、タイトルを保持したまま1階級上のWBC世界フェザー級王者サルバドル・サンチェス(メキシコ)とタイトルマッチを行うも、8回KO負けを喫し初黒星となった。総試合数48・勝ち44・KO勝ち42・敗け3・引き分け1
■フェリックス・トリニダード
Felix Trinidad、1973年1月10日 - は、プエルトリコ出身の男性プロボクサー。ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の3階級を制覇し、1990年代を通して最強の中量級ボクサーとの呼び声も高かった。ニックネームは「TITO(ティト)」。1999年2月20日、元4階級制覇王者のパーネル・ウィテカーに12R判定勝ち。1999年9月18日、オスカー・デ・ラ・ホーヤとの無敗対決を制し、WBC世界ウェルター級王座獲得。総試合数45・勝ち42・KO勝ち35・敗け3
■ベニチオ・デル・トロ
Benicio Monserrat Rafael del Toro Sanchez, 1967年2月19日 - は、アメリカ合衆国プエルトリコ出身の俳優。プエルトリコ・サン・ヘルマン出身。スペイン人とイタリア人の血を引く。両親・祖父が弁護士だったため、自身も弁護士になるつもりだったが、サンディエゴ大学在学中に演技に目覚める。ステラ・アドラーなどの演技指導者たちに学ぶため、大学は中退した。1988年に『ピーウィーの空飛ぶサーカス』で映画デビュー。『007 消されたライセンス』などで下積みが続くが、1995年の『ユージュアル・サスペクツ』で強烈な印象を残した。
■カーミット・シントロン
(Kermit Cintron、男性、1979年10月22日 - )は、プエルトリコのプロボクサー。元IBF世界ウェルター級王者。元WBO世界ウェルター級暫定王者。強烈なパンチ力を武器に積極的にKOを狙っていくスタイルから「The Killer (殺し屋)」の異名を持つ。
■カルロス・キンタナ
(Carlos Quintana、男性、1976年11月6日 - )は、プエルトリコのプロボクサー。元WBO世界ウェルター級王者。「エル・インディオ (El Indio)」の異名を持つ。彼の戴冠により同階級にはWBA王者ミゲール・コット、IBF王者カーミット・シントロンと3人のプエルトリコ人ボクサーが世界王者として君臨することとなった。10歳でボクシングを始めた。アマチュアの実績は長く20歳の時にプロへ転向するまでに70戦62勝48KOという記録を残している。
■デイヴィッド・ザヤス
(David Zayas、1969年12月31日)は、プエルトリコ出身のアメリカの舞台、映画、テレビで活躍する俳優。生まれはプエルトリコで、ニューヨークのブロンクス区で育った。ザヤスは、早い時期にアメリカ空軍に入り、そこでざざまな訓練や資格を身につけ除隊後はニューヨーク市で警察官になった。警察官としての職務の中で彼は、その後性格俳優として彼のキャリアを切りひらくことのできるようなパーソナリティを培っていった。
■スレイカ・リベラ
(Zuleyka Jerris Rivera Mendoza、1987年10月3日 - )はミス・コンテスト勝者で、ミス・プエルトリコ2006及びミス・ユニバース2006。身長5フィート9インチ(175センチ)。2006年7月23日に米ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムで開催されたミス・ユニバース世界大会で、2001年以来5年ぶり5人目のプエルトリコ人ミス・ユニバースとなった。
■ネスター・トーレス
(Nestor Torres、1957年 - )はプエルトリコのマヤグエース生まれのジャズ・フルート奏者である。 彼は12歳の時よりフルートのレッスンを始め、Escuela Libre de Mú碵icaで正規の教育を受けた後、プエルトリコ・インターアメリカン大学へと進む。 18歳の時、家族と共にニューヨークへと引越した。 ジャズとクラシック音楽の双方を学ぶ為、トーレスはニューヨークのマネス音楽大学及びボストンのニューイングランド音楽院、更に他の場所へと行った。
■マヌエル・ベラスケス
Manuel Velazqez, 1917年 - )はプエルトリコに生まれ、現在アメリカ合衆国本土に在住の楽器製作者。最初は家具職人からスタートし、ヴァイオリンやギターの修理を経て後に、本格的にギターを製作しはじめる。アメリカに移住後は、ギター製作の指導も行い、アメリカのギター製作学校の父と呼ばれている。